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タイの世界遺産

現在タイ王国には、ユネスコの世界遺産に登録されている遺産が全部で5つあります:

◆文化遺産
スコータイの歴史上の町と関連の歴史上の町・・・(1991年)
アユタヤの歴史上の町と関連の歴史上の町 ・・・(1991年)
バン・チアン遺跡・・・(1992年)

◆自然遺産
トゥンヤイ-ファイ・カ・ケン野生生物保護区・・・(1991年)
ドンパヤーイェン-カオヤイ森林地帯・・・(2005年)

◆複合遺産
なし

地域別には、以下の通りです:
◆北部
●スコータイの歴史上の町と関連の歴史上の町
・スコータイ歴史公園
・シーサッチャナーライ歴史公園
・カムペーンペット歴史公園

◆中部
●古都アユタヤ
●トゥンヤイ-ファイ・カ・ケン野生生物保護区 - (1991年)
・トゥンヤイ・ナレースワン野生生物保護区
・フワイ・カーケーン野生生物保護区
●ドンパヤーイェン-カオヤイ森林地帯 - (2005年)

◆東北部
●バン・チアン遺跡 - (1992年)

●南部
なし

「アユタヤの歴史上の町と関連の歴史上の町」は、現在、「古都アユタヤ」の名前で登録され、その公園内には次の遺跡があります:

・王宮
・ワット・プラシーサンペット
・ウィハーン・プラモンコンボーピット
・ワット・ウォーラチェーターラーム
・ワット・ローカヤスター
・ワット・ラーチャブーラナ
・ワット・マハータート
・ワット・プララーム
・ワット・ウボーソット

公園外にもさまざまな観光施設や遺跡が残されています。
たとえば、南部には、14世紀から18世紀まであったといわれる「アユタヤ日本人町」の面影をみることができます。
アユタヤ遺跡を訪れたら、ちょっと立ち寄ってみてもいいかもしれませんね。  


Posted by AsiaNeed タイ②

アユタヤの歴史

現在、ユネスコの世界遺産に「古都アユタヤ」の名前で登録されているアユタヤ遺跡は、バンコクの北方約80キロに位置します。
13世紀にタイ初の王朝、「スコータイ王朝」が誕生しあと、スコータイ王朝の衰退と並行し、14世紀ウートン王がここに王朝を築いたのが、アユタヤ王朝の始まりです。


アユタヤは、チャオプラヤー川とその支流に囲まれ、水運に恵まれた土地です。
アユタヤの中心部は、東側をバサック川、北側をムアン運河とロップリー川、西と南側をチャオプラヤー川に囲まれ、大きな島状の地形を成しています。
鉄道駅は島の外、バサック川の対岸にあることから、駅からは渡し舟を使って島部へと渡ります。


アユタヤ朝がこの地に生まれた14世紀当時、ここは「アヨータヤ」と呼ばれ、スコータイ王朝の支配下の都市国家でした。
その後、水運に恵まれたアユタヤ国は繁栄を続け、15世紀には「シャム」という名前で、カンボジアのアンコール王朝を、さらには近隣のアジアのみならずポルトガル、スペイン、オランダ、イギリス、フランスなどとも盛んに貿易をしていたようです。
国際都市としてのその名は世界中に知れ渡りました。
日本人の傭兵隊長、山田長政が活躍したのもこの頃です。


しかし18世紀になるとビルマ(現在のミャンマー)軍の攻撃によって、滅亡へと追い込まれたのです。


現在、「古都アユタヤ」として世界遺産に登録されている「「アユタヤの歴史上の町と関連の歴史上の町」の公園内には次の遺跡があります:

・王宮
・ワット・プラシーサンペット
・ウィハーン・プラモンコンボーピット
・ワット・ウォーラチェーターラーム
・ワット・ローカヤスター
・ワット・ラーチャブーラナ
・ワット・マハータート
・ワット・プララーム
・ワット・ウボーソット

どこから歩いたらいいのでしょうか?
まずは、最も重要なワット・プラシーサンペットからでしょう。
3基のセイロン様式の仏塔に圧倒されてください!  


Posted by AsiaNeed タイ②

市場

タイ庶民の暮らしを垣間見てみたい人は、是非、市場に行ってみてください。


●パーククローン市場
ちょっとびっくりするかも? しれませんが、タイ庶民のエネルギーに触れるなら、是非、パーククローン市場へどうぞ! チャカ・ペット通りの南で、チャオプラヤー川沿いの一帯です。
プラ・ポック・クラオ橋から徒歩10分ほどです。
ここは、まさに地元の人たちのための市場ですから、観光客がもたもたしていると迷惑がられるかもしれません。
毎朝、新鮮な商品が対岸のトンプリーから運ばれてきます。
野菜や果物、生花を扱う生鮮市場です。



●バンランプー市場
バンコクの観光スポット、王宮から徒歩圏にあるのは、バンランプー市場です。
プラ・スメン通りとチャクランボン通りに囲まれた一帯です。
ニュー・ワールド・デパートの裏手をのぞくと・・・どこに一大マーケットが広がっているのです。
ここは衣料品が中心のマーケットです。
道沿いには商店がひしめくように建ち並び、その前の歩道にもところ狭しと露天商が品物を広げています。
最新のファッションとは・・・ちょっとばかりいいがたいですが、値段の安さは折り紙つきです。
値段交渉もOK! アクセサリーも売っています。
麺類やお惣菜のお店、揚げ菓子、飲み物を売る屋台もありますから、疲れたら一休みしながら歩いてみるのも楽しいですよ。
王宮からは徒歩15分ほどです。


●プラトゥーナム市場
地元の客も観光客も、とにかく大勢がひしめくのが、プレトゥーナム市場です。
ペッブリー通り沿いに広がる一大マーケットです。
商店や雑居ビルがびっしりと建ち並びます。
歩道橋の上から眺めてみるのもいいでしょう。
露天のテントの屋根が延々と続いているのが見えます。
扱っている品物も雑多です。
衣料品、日用雑貨、それに食料品・・・休日はものすごい人です。
くれぐれもスリなどの犯罪には気をつけてください。  


Posted by AsiaNeed タイ②

ワット・ポー 涅槃仏寺

バンコクで最も歴史ある寺院は、ワット・ポーは、アユタヤ時代創建といわれ、ラマ一世とラマ三世による大改修により、現在の形になりました。
境内の広さも最大といわれます。


この寺院の別名「涅槃仏寺」は、ここに建立された巨大な涅槃仏に由来します。
全長49メートル、高さ12メートルという巨大さで、全身に金箔が施されています。
境内の北西に、少々窮屈そうに横たわっており、その格好は涅槃の境地に達し、悟りを開いたことを意味します。
位置的に全貌することは難しいのですが、是非、着目していただきたいのは、足の裏です。
仏教の世界観をあらわした、バラモン教の宇宙観が、108の図に表象されています。
見事な螺鈿で描かれているのです。
螺鈿というのは、貝殻の、真珠色に輝く部分を研磨し、素地にはめ込んでいく技法です。


また、仏堂の前にある菩提樹の老木にも着目です! これは仏陀がその下で悟りを開いたといわれる菩提樹の枝を挿し木したものといわれます。


本堂を取り巻く外回廊と内回廊も忘れてはいけません。
外回廊には244体の、そして内回廊には150体の仏像が並べられているのです。
そして本堂の背後には、4基の仏塔が建っています。
中国製の色鮮やかなタイルで彩られ、ラマ1世から4世までを祀っています。


この寺院はかつてタイで初の本格的な学問所として機能していました。
現在は、タイ式医学の流れをくむ、マッサージ学校だけが残っています。
境内にはマッサージ場まであり、一般の人もここでタイ式マッサージを受けることができます。
ちなみに・・・30分100B、1時間で180Bです。
是非、旅の疲れをとってもらってはどうでしょう?  


Posted by AsiaNeed タイ②

ラーマキエン

トンプリー王朝時代の守護寺院だったワット・アルン(暁の寺)の大仏塔には、『ラーマキエン』の登場人物の石像が飾られています。
また、王宮内のワット・プラ・ケオ(エメラルド寺院)のエメラルド仏を祀る本堂をはじめ、それを取り巻くすべての建造物は、ぐるりと回廊に囲まれており、その壁画にも『ラーマキエン』の物語に題材をとった鮮やかな絵画が描かれています。


回廊の途中には6つの門があり、そのそれぞれに門を守るようにして大きな鬼の像が両脇を守るようにして立っています。
これも『ラーマキエン』の登場人物で、人肉を好む邪悪な性格であるといわれる鬼です。


『ラーマキエン』は、インドの長編叙事詩『ラーマーヤナ』を基に、登場人物やストーリーをタイ風にアレンジしたものです。
タイ語で、古くから口承で伝えられていたものをラマ一世がまとめ、1789年に完成させたのです。
現在、タイ文学を代表する作品となっています。


主人公は、ヴィシュヌ神の生まれ変わりとされるアユタヤのラーマ王子です。
婚約者のシータ姫が悪魔トッサカンにさらわれてしまったことから、彼は白猿の王ハムマーン率いる猿軍団の助けを借りて、悪の軍団に立ち向かうのです。
最後は、無事、姫を救い出し、ハッピーエンドで幕を閉じます。
タイの古典舞踊の主要な演目になっています。


エメラルド寺院の回廊の壁画はラマ3世の命によって造られ、その後何度も修復が行われています。


回廊をめぐりながら、壁画を楽しむと共に、東側にも目を向けてください。
8基の仏塔が一列に並んだ姿は壮観です。
これらは形は同じで色が違うものとなっています。  


Posted by AsiaNeed タイ②

エメラルド寺院 ワット・プラ・ケオ 前の3塔

ワット・プラ・ケオ、別名「エメラルド寺院」の名の由来ともなった本堂の北側に3つの塔が建っています。
本堂を背に右から、プラサート・プラ・テッピドン、プラ・モン・トップ、そしてプラ・スィー・ラタナ・チェディです。


プラサート・プラ・テッピドンは、ラマ4世の命で建立され、歴代の国王の像を安置します。
現在、内部にはラマ一世から八世までの等身大の像が安置されているのですが、残念ながら公開されていません。
国王が年に1回、王朝記念日である4月6日に参詣するだけです。
塔の前に建つ二つの仏塔は、ラマ一世が両親にささげたものです。
そして塔の周りに配置されているのは黄金の半人半鳥像です。
これはインドの長編叙事詩「ラーマーヤナ」に登場する神様で、男は「キンノーン」、女は「キンリー」と呼ばれています。


ワット・プラ・ケオの前の3つの塔の真ん中、プラ・モン・トップのなかには、『三蔵経』が納められています。
『三蔵経』というのは、仏教の根本聖典で、1789年にラマ一世が約4ヶ月間かけて整えたものといわれます。
残念ながら、この塔もプラサート・プラ・テッピドン同様、非公開です。
この塔も、ラマ一世によって建立され、タイ様式をとっています。
目を引くのは、塔の前に建つヤック(鬼)とナーク(蛇)の像です。
これらは塔の内部に敵が侵入しないよう見張っているのです。


もうひとつ、一番左側のプラ・スィー・ラタナ・チェディは、ラマ4世時代に建立されました。
バンコクから北方へ約75キロメートルいったアユタヤにある、ワット・プラ・スィー・サンペットを模したものといわれ、スコータイ様式で作られています。
ワット・プラ・スィー・サンペットは、かつてのアユタヤ王朝の守護寺院で、全身が純金で覆われた巨大な仏像が祀られていたといいますが、ビルマ軍の攻撃により都ともども破壊され、現在は石灰化した3基の仏塔しか残っていません。
一方、このプラ・スィー・ラタナ・チェディは、塔全体が金色に塗られ、まばゆい光を放っています。
内部には、仏陀の遺骨、舎利が納められています。  


Posted by AsiaNeed タイ②

ワット・プラ・ケオ エメラルド寺院

王宮の正門(北門)から入り、芝生を越えた正面奥にあるのがチャクリー宮殿、その右手にあるのがデュエット宮殿、そしてその左手前がワット・プラケ・ケオ、別名エメラルド寺院です。
現在、タイで最も格式の高い寺院です。
エメラルド寺院という名称は、ここの本堂に安置されている本尊が、エメラルド色の翡翠でできていることに由来します。


このエメラルド仏は、王宮の建設を最初に命じたラマ一世が、チャクリー王朝を興す前、トンプリー王朝のタークシン王に仕えていた時代にラオスに遠征した際に戦利品として持ち帰ったものです。
当初は、トンプリー王朝の守護寺院であったワット・アルン(暁の寺)に安置されていましたが、ラマ王朝が王宮を建設し、この仏のためにワット・プラ・ケオを建設してその本尊として祀られることになったのです。
王朝の移り変わりによる遷都に伴い、この仏もチャオプラヤー川を渡ったのです。


エメラルド仏が安置されているのは、本堂の奥の見事な黄金細工が施された祭壇の最上段です。
高さ66センチメートル、幅48センチメートルです。
これを大きいと見るか、小さいと見るかは人ぞれぞれでしょうが、思ったより小さかったという印象を受ける人が多いようです。


仏像の両側には高さ3メートルの黄金仏像があり、その背後には仏教の宇宙観をあらわす壁画が描かれています。
仏像の黄金の衣装は、年3回、3月、7月、11月に国王自らの手で衣替えをします。  


Posted by AsiaNeed タイ②

デュシット宮殿

白壁に囲まれた、20万平方メートルの王宮の敷地内には、1782年のラマ一世による王宮の建設着手以来、増築を重ねて現在にいたった王宮の歴史をたどるかのようにいくつもの宮殿と、王室を見守ってきた守護寺院ワット・プラ・ケオ(エメラルド寺院)が存在します。


ナ・プラ・ラーン通りに面する王宮の正門(北門)ウィセートチャイシー門を入ると、手前の芝生を越えた正面奥にそびえるのが、タイ様式とビザンチン様式を折衷させたチャクリー・マハオウラサート宮殿です。
これはラマ5世がチャクリー朝100周年を祝い建立した宮殿です。


チャクリー宮殿の右手にあるのは、デュシット宮殿です。
白い外壁に7層のきらびやかな色彩の屋根が載せられているのがみえるでしょう。
この宮殿は、ラマ1世によって建立され、王宮の敷地内では最古の建築とされ、タイの伝統建築の傑作といわれます。
内部には、ガルーダの紋章がついた玉座があります。
ガルーダは、ヒンズー教のヴィシュヌ神の乗り物とされる半人半鳥の神です。
タイ王室の象徴とされています。
先のチャクリー宮殿が、西洋のビザンチン様式とタイの伝統的な様式の折衷であるのに対し、このデュシット宮殿は、暁の寺(ワット・アラン)と同様、インドのヒンズー教色が色濃い建物です。
玉座は2種類で、真珠貝をあしらった黒漆塗りの象眼細工のものと、南側の側廊に置かれた銀の小玉座のです。
ラマ一世が崩御されたときにここに遺体が安置されたことから、王族の遺体はいったんここに安置されたあと、荼毘にふされるようになりました。
はすの葉や花を描いた、落ち着いた色調の壁画が飾られています。  


Posted by AsiaNeed タイ②

チャクリー宮殿の構造

暁の寺として有名なワット・アルンには、インドのヒンズー教の影響が濃厚に体現され、タイ仏教とヒンズー教の密接な関係が窺えます。
一方、このチャクリー宮殿には、西洋ビザンチン様式の影響が強く、それにタイ様式が随所に見事に織り込まれ、不思議な折衷様式を生み出しています。


建物は3階建てで、1階にはレセプション・ホールや国王警備兵の詰め所があります。
2階は謁見の間です。
そして3階には王家の遺骨が安置されています。
建設当初、この宮殿の右翼には王の住居があり、左翼には後宮があったといわれます。
王子は子ども時代をこの後宮ですごしたのです。
チャクリー宮殿の建設を命じたラマ5世時代、この後宮には約3000人の女性が住んでいたといわれます。
日本の大奥に似た存在だったのでしょうか?
2階の謁見の間に足を踏み入れると、まるでヨーロッパの古城を訪れたような気分になります。
しかしよく目を凝らすと、そこには確かにタイの伝統が息づいていることに気づかされます。
豪華なシャンデリアの下にタイとヨーロッパのエッセンスを組み合わせた見事な装飾の玉座がしつらえてあります。
周囲の壁を見渡すと、歴代の国王や王妃の肖像画や、写実画などが飾られています。
現在、王宮には王は住んでいません。
もっぱら、戴冠式や王室儀式、およびVIPを迎える迎賓館としての役割です。
チャクリー宮殿二階の謁見の間も、現在は、外国使節の信任状を受理する場として使用されており、公開されていません。


しかしこのチャクリー宮殿を訪れるとき、タイという国が諸外国のエッセンスをいかに柔軟に取り込んできたか、その柔らかな、しなる強さを実感するのです。  


Posted by AsiaNeed タイ②

王宮の見学 チャクリー宮殿の歴史

トンプリー王朝のタークシン王を継ぎ、チャクリー王朝を興したラマ一世は、ビルマ軍の攻撃から都を守るためにチャオプラヤー川の東岸に新しい都を建設しました。
ラマ一世の国づくりの理想は、アユタヤ王朝にありました。
バンコクの北方75キロメートル、現在車で1時間ほどのところに位置し、ビルマに滅ぼされたかつての王朝です。
王宮も、アユタヤ朝の王宮を模しています。


正門(北門)は、ナ・プラ・ラーン通りに面しています。
正門の名称は、ウイセートチャイシー門です。
中に入ると、緑の芝生が目に入ります。
その向こう、正面奥、敷地のほぼ中央にそびえるのが、チャクリー宮殿(チャクリー・マハ・プラサート宮殿)です。


淡いピンクの大理石で造られた壮麗なビクトリア様式のファサードにタイの寺院建築特有の何層にも重なった尖塔を載せたその独特の様式は、タイ様式と西洋様式の折衷の様式です。


この宮殿は、ラマ一世による建築ではなく、19世紀(1876年)チャクリー王朝100周年を祝い、ラマ5世によって建設が始められたのです。
ラマ5世は当時、イギリス人の建築家にルネッサンス様式で建てるよう命令したそうなのですが、途中でタイ様式も採り入れようということになり、その結果、現在のようなタイと西洋の折衷様式となったのです。


バンコクの抜けるような青空を背景に、王宮のほぼ中央に威容を誇るその姿はこの王朝のたどってきた歴史を反映した、一種、不思議な景観を生んでいます。  


Posted by AsiaNeed タイ②

王宮

現在、タイ国王は住んでいませんが、今も昔も変わらぬ崇高な姿を誇るのが、王宮です。
チャオプラヤー川沿いの東岸に位置します。
白い壁に囲まれた20万平方メートルの敷地内に、いくつもの宮殿と王室の守護寺であるワット・プラ・ケオが建っています。
18世紀(1872年)に、ラマ一世が建設に着手していて以来、増築を重ね、現在の形になったといわれます。


ラマ一世は、現在のタイ王朝の始祖となった人です。
現在、エメラルド寺院に納められているエメラルド仏は、もともとラマ一世がラオスのヴェンチャン遠征から持ち帰り、暁の寺として知られるワット・アレンに安置したのが始まりです。
ワット・アレンはアユタヤ王朝時代に創建され、トンプリー王朝の守護寺院となった寺で、チャオプラヤー川の西岸に位置します。
その後、ラマ一世がチャクリー朝(ラタナーコーシン朝)を興し、王都はチャオプラヤー川の東岸へ遷都され、守護寺院も東岸のワット・アレン(暁の寺)から、西岸のワット・プラ・ケオ(エメラルド寺院)へ移されることのなったのです。


ラマ一世のチャクリー朝の前、タークシン王のトンプリー王朝の都は、ワット・アレンと同様チャオプラヤー川の西岸に位置しました。
しかし、当時この一帯にはビルマの攻撃が迫っていました。
ビルマは、タイのアユタヤ朝を滅亡に追いやった強国です。
タークシン王のあとを受け継いだラマ一世が都を現在の位置、チャオプラヤー川の東岸へ移したのは、ビルマ軍の攻撃を防ぐためだったのです。
当時バンコクは、住宅環境があまり良いとはいえない状況でしたが、新都の西側に流れることになるチャオプラヤー川と、東に広がる低湿地が都を守る自然の城郭となると考えられたのです。


人びとは、この新都を「クルンテープ(天使の都)」と呼ぶようになったといいます。  


Posted by AsiaNeed タイ②

ワット・アルンの歴史と大仏塔

ワット・アルン(暁の寺)の象徴とも言えるのが、五基の仏塔です。
中心の大仏塔は高さ75メートルあります。

ワット・アルンが創建されたのは、アユタヤ時代です。
その後、トンプリー王朝のタークシン王によって、改修され、王室の守護寺院となったのです。
現在は、ワット・プラ・ケオ(エメラルド寺院)に安置されているエメラルド仏は、もともとラマ一世がラオスのヴィエンチェン遠征から持ち帰り、このワット・アルンに安置したものだったのです。


ワット・アルンは、その後、ラマ2世による大改修を経て、ラマ3世の時代に現在の形になりました。
寺の象徴ともいえる大仏塔は、ラマ3世の時代に、もともとあった高さ16メートルの仏塔を改修して造られたものです。


インド色が濃厚に漂うその見事な装飾は、タイ仏教とヒンドゥー教との密接な関係を体現しています。
実際、これほど強い影響をうかがわせる建物は珍しいといえるかもしれません。


大仏塔の頂上部分は、バラモン教のシヴァ神の象徴であるリンガ形になっています。
表面には色鮮やかな中国製の陶器の破片がびっしりと埋め込まれ、花模様を描いています。
また、インドラ神の神の乗り物とされる「エラワン象」や、「ラーマキエン」の登場人物の石像などが飾られています。
塔のなかに備えられた階段を上っていく途中でも、インド風の彫り物を豊富に目にすることができます。
塔の上からはチャオプラヤー川の流れとバンコクの街並みが一望できます。  


Posted by AsiaNeed タイ②

ワット・アルンと三島由紀夫

「ワット・アルン(暁の寺)」は、かつては第一級寺院だったこともあるほど由緒正しき寺院です。
アユタヤ王朝の崩壊後、ワット・アルン(暁の寺)は、当時のタークシン王によって第1級寺院とされました。
現在「ワット・プラケオ(エメラルド寺院)」に祀られ、その名の由来ともなったエメラルド仏も、もともとはこの寺院の本尊として祀られていたものなのです。
しかしタークシン王時代の崩壊とともに第一級寺院は「ワット・プラケオ(エメラルド寺院)」へ移転され、エメラルド仏もこの寺院を離れることになったのです。


三島由紀夫の『暁の寺』は、この寺をモチーフにしたといわれます。
彼はこの寺の象徴ともいえる塔を「塔の重層感、重複感は息苦しいほどであった。
色彩と光輝に充ちた高さが、幾重にも刻まれて、頂きに向かって細まるさまは、幾重の夢が頭上からのしかかって来るかのようである」と表現しています。
中心に大きくそびえる大仏塔と、その周りに4基の仏塔は、バンコクの、そこまでも青い大空のもと、眩しすぎるほどの陽の光を浴びて輝いています。
光の粒に包まれたような大仏塔を見上げれば、三島由紀夫でなくともため息がでます。


「アルン(暁)」の「ワット(寺院)」といわれるだけあって、その暁時の美しさ・・・暁に染まり、チャオプラヤー川越しに映る姿は目を見張ります。
しかし沈む夕陽を背景に、オレンジ色のシルエットが浮かびあがる姿もまた、違った魅力です。  


Posted by AsiaNeed タイ②

ワット・アルン(暁の寺)

現在の第一級寺院である「ワット・プラケオ(エメラルド寺院)」と並び、「ワット・アルン(暁の寺)」は、バンコク観光の目玉ともいえるスポットです。
「ワット」は寺院、「アルン」は暁を意味で、その名の通り、暁に染まった姿は見事の一言に尽きます。
チャオプラヤー川越しに映る、その姿は、観光客だけでなく、喧騒と渋滞にいささか辟易しているだろうバンコク市民の心を和ませてくれているのではないでしょうか。


この寺院の象徴は、5基の仏塔です。
中心に建つ大きな塔が1基、その周辺に4基の塔が並びます。
大きな塔とその周辺に建つ4基は大きさこそ違いますが同じ構造をしています。
大きな塔には急な階段が備えられています。
塔の階段を上っていくなかで驚かされるのは、インドの影響です。
インド風の彫り物があったり、塔の装飾に用いられている石像がラーマキエン物語の登場人物だったりするのです。
タイの仏教とインドのヒンドゥー教は密接な関係があります。
このワット・アルン(暁の寺)は、その影響の強さを象徴しているのです。

ワット・アルン(暁の寺)を訪れたのなら、是非、この階段をのぼってみてください。
79メートルの高さから眺める下の景色はすばらしいです。


ワット・アルンへは、バスでNo.57、No.83で行くことが出来ます。
しかし、バンコクの陸上交通は、現在、想像を絶する混雑ぶりです。
むしろ、チャオプラヤー川対岸のThe Tienから渡し舟に乗ってはどうでしょう? 

旅情も高まりますよ!  


Posted by AsiaNeed タイ②

北部タイ

バンコクを中心とする中部タイだけがタイではありません。
タイを旅行する場合、どうしても首都バンコクやアユタヤ遺跡のあるアユタヤ地方が中心となりますが、古都チェンマイのある北部、カンボジアに接する東北部、そしてタイランド(シャム湾)を臨む南部、もそれぞれに独特の魅力に溢れます。
タイを旅行していると、激辛の唐辛子を多用する中部タイのものとなりがちですが・・・北部、東北部、南部のタイの料理も捨てたものではありません! バンコクとは違った魅力がたっぷりです。


北部タイ
北部タイは、山脈と山地の盆地からなることもあり、平均気温は24~25度です。
バンコクと比べずいぶんと過ごしやすいです。

古都チェンマイが位置する北部タイでは、多種にわたる香辛料が生産されます。
そのため、北タイ料理では、唐辛子を控え、さまざまな香辛料を使った香り高い料理をいただくことができます。
辛いのが苦手な方には是非、お勧めです。
たとえば、ナムプリックは、香料をベースにした味噌です。
種類が豊富で、カウニャウ(モチ米)などにつけて食べます。

しかし、昨今では北タイのレストランでもバンコク風の味付けか、あるいは中華風の場合が多くなっています。
北タイ本来の味付けを楽しむには、田舎の農家の家庭料理でしか無理になっています。
それでも、北タイを訪れたなら、「カントーク・ディナー」といって、宴会形式の食事を楽しみながら、古典舞踊を観ることを是非、お勧めします。  


Posted by AsiaNeed タイ②

中部タイ

タイ旅行の出発点は、やはりバンコクになることが多いですよね。
バンコクは、タイの中央部に当たります。
中部タイは、チャオプラヤー川のデルタ地帯で、きわめて平坦です。
上流部の古デルタと下流部の新デルタにわかれ、前者は海抜20メートル、後者は海抜2メートル!と、実に低いのです。
この地形的特徴が、タイを世界的な穀倉地帯にしています。
チャオプラヤー川の氾濫が土地を肥沃にし、中部デルタ地帯を豊かにするのです。


首都バンコクは、この新デルタの高位部に位置することから、チャオプラヤー川の氾濫による直接的な影響、被害からは免れますが、時おり、大洪水に見舞われることも珍しくありません。


バンコクで是非、お勧めは運河めぐりです。
チャオプラヤー川を挟んで、右岸の体系は1860年代に、左岸の体系は1880年代にそれぞれ完成されました。
1980年代後半から都市の工業化が進み、運河体系を取り囲む景観は急速に変わりつつあります。
しかし、陸上の喧騒とものすごい混雑、渋滞のなか、運河を北上していくのはなんとも風情があります。
バーンパインからナコンナーヨックにかけての40キロを南北、東西にわたる運河は定期船と、渡し舟が運航しています。


ちなみに・・・チャオプラヤーとは、「偉大な」という意味です、日本では、チャオプラヤー川を「メナム川」と呼ぶことが多いようですが、これはちょっと間違い! 「メナム」とは、母なる水、つまり川を総称する言葉です。
したがって、もしいうなら、「チャオプラヤー・メナム」と呼ぶべきでしょうね。  


Posted by AsiaNeed タイ②

屋台と食堂

タイを旅行していて、ひもじい思いをすることは・・・まずないのではないでしょうか? 町にあちこちで、気軽に入れる食堂や屋台を見かけます。
ご自慢の料理をずらりと並べ、お客はお好きな料理を幾つか指差し、あとは主食の「カーオ」(ご飯)をオーダーすればいいのです。
暑いタイでは、食事には必ず飲み物はどうか?と聞かれます。
お水なり、コーラなりを頼みましょう。
清算は、食べ終わってからまとめてすることになります。


主食は、お米ですから、ご飯が最もポピュラーです。
屋台や食堂のなかには、おかゆを扱う専門店もあります。
おかゆは、「カオ・トム」といいます。
「カーオ」は「ご飯」、「トム」というのは、タイ語で「煮る」という意味です。
かの有名な「トムヤム・クン」とは、レモン・グラスというハーブの一種をベースにしたスープです。
「ヤム」(サラダ)を「ヤム」(煮る)し、「クン」(エビ)を入れた・・・という意味でしょう。


また、麺類も、タイではお米の粉から作られるものがおいしいです。
「クイッティヤウ」は、きしめん風の麺です。
麺が太いものを「セン・ヤイ」、麺が細いものを「セン・レック」といい、2種類あります。
また、日本でもお馴染みに「センミー」は、ビーフンのことですが、どことなくそうめんのような生のビーフン「カノムチーン」も、是非、ご賞味ください。


その他、小麦の麺では「バミー」があります。
小麦粉と卵を使った、中華そばと考えるといいかもしれませんね。  


Posted by AsiaNeed タイ②

食事

タイは米食文化の国です。
主食はお米。
それに何種類かの副食を組み合わせて食べます。
タイでは仏教徒が大半を占め、宗教的に敬虔な国民です。
しかし肉食のタブーはあまりありません。
牛、豚、鶏、魚介類、それに・・・蛙などなど、あらゆる肉類が食卓を盛り上げます。
海や川に囲まれていますから、魚介類も豊富です。


食材の種類も量も豊富ですし、煮物、炒め物、蒸し物、スープ、カレーなど、調理法も実にバラエティに富んでいます。


でも? タイの食卓で欠かせないのは、香辛料です。
ニンニク、唐辛子はもちろんですが、タイ料理、タイの食文化でなくてはならないのは、「ナム・プラー」と、「ガピ」、それに「バクチー」です。


「ナム・プラー」は、魚からつくったおしょうゆです。
また、「ガピ」というのは、エビやアミを発酵させて作った味噌のようなものといっていいでしょう。
また、「バクチー」は、セリ科の一種の香草で、ミツバのようなかわいい形状からは想像もつかないほど、強烈な香りを発します。
英名の「コリアンダー」といったほうがご存知の方もおおいかもしれませんね。
その他、南国ですから、ライムやココナッツミルク、などがお馴染みです。


メニューをみてもきっと?さっぱりですよね? でも大丈夫!町を歩けばどこにでもある食堂や屋台では、料理をずらりと並べています。
まずは「カーオ」(ご飯)を頼み、店先でおいしそうな料理を幾つか頼む・・・指差せば、立派な食事が出来上がります。  


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金銀宝石

●金製品
タイでは、貯蓄として金を購入することを好む傾向があります。
銀行が普及する前は、金行を利用する人が多かったといいます。
タイ通貨の「バーツ」というのは、もともと金の単位だったのです。
タイでは、現在、ネックレスなどの装飾品を購入する場合、加工料として380バーツを支払うことになっています。


金行の本店は、バンコクの旧商業街のヤワラート通りです。
ここの相場がタイ全土の金行の規準相場となります。
金製品を買う場合も、ヤワラート通りがよいようです。


●宝石
タイは宝石の産地です。
特産は、ルビーとサファイヤ。
どちらも日本ではなかなか手の出ない高価な宝石ですよね。
でもタイなら、原石、加工品とも日本よりも格段の安さです。
加工技術、デザインも洗練され、女性でなくても見とれてしまいます。
ルビーは特産としてお得ですし、サファイヤはその品質の高さで知られています。


●銀製品
銀は、チェンマイを中心とする北部の特産品です。
各種の銀製品が手ごろな価格で手に入れられます。
細工はすべて手作業で、その技術の高さには目を見張るものがありますが・・・不純物を含むものが時折、見受けられますので、注意しましょう。


お安いのは魅力ですが、品質の良さは保証の限りではないため、あまりにも安価な場合はちょっと遠慮しておいたほうが無難かもしれませんね。
値段交渉もまた楽しみの一つ、つい力が入りすぎてしまいますが・・・あまり熱くならず、交渉を楽しむくらいの余裕で臨みたいものです。  


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タイの焼き物

タイのお土産といえば、「タイ・シルク」が思い浮かぶ方もおおいかも知れません。
でも、タイには他にもたくさんの魅力溢れるアイテムがあります。
たとえば? 

●焼きもの・・・セラドン焼き、ベンジャロン焼き
●金製品
●宝石・・・ルビー、サファイヤ
●製品、皮革製品、籐家具、民芸品などなど・・・。


目移りしてしまうほどです。


●セラドン焼き
セラドン焼きというのは、ひび割れたような加工が全体に施された淡いグリーンの焼き物です。
タイ北部の特産品で、厚みがあり、その重厚な雰囲気は、置物としても見栄えがありますし、丈夫なので日常使いの食器にも最適です。
ティーポットとティーカップをそろえれば、おしゃれなティータイムが演出できます。
また、セラドン焼きの専門店でまず目を引くのは、象の置物です。
種類も大きさもさまざま。
玄関にこんな豪華な象がデンと置かれていたら、目を引きますね。



●ベンジャロン焼き
ベンジャロン焼きは、赤、青、緑などの原色による細密画のような色彩に、金色の縁取りを施した、それはそれは豪華な焼き物です。
セラドン焼きとは明らかに異なる趣向で、好みが分かれるかもしれませんし・・・どちらもほしいと思ってしまうかもしれませんね。


焼き物類は魅力的なのですが、お土産には重いのが難点です・・・大きなものを購入した場合には、配送サービスを利用するのもいいかもしれませんね。
ほとんどの店では、保険や通関、その他の手続きを代行してくれるので安心です。  


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買物 タイ・シルク

旅行の楽しみは? ショッピングという人もいらっしゃるかもしれませんね。
現地ならではのものをお値打ちに買い求めるのも楽しいものですし、市場などをただ見てあるくだけでも現地の人たちの生活がしのばれ、興味深いものです。

特にタイでは、値段交渉も楽しみの一つです。
コツは?まずは相手の言い値の半分くらいから始めることです。
そして最終的に相手の値段とこちらの値段のちょうど半分くらいで手を打つ! これができればあなたはもうベテランですよ。
ただ、大声を上げたり、相手を脅すような態度は慎みたいですね。


そこで・・・タイ語講座です!
●「いくらですか?」・・・「タオライ」
●「高すぎます」・・・「ペーン・グゥーン・パイ」

タイといえば、やっぱり「タイ・シルク」かもしれませんね?

●タイ・シルク
元アメリカの陸軍将校だった、「シルク王」ジム・トンプソンがタイのシルクに魅せられて、タイ・シルク・カンパニーを興したのが始まりで世界中にその名を広めました。
伝統的な技術に現代的な色彩やデザインを取り入れた手法は、一躍世界中に広まったのです。

色鮮やかで光沢のあるタイ・シルクは女性の憧れ! 宝石箱やシルクで作ったブローチ、かばんなど・・・また男性にはシルクのネクタイが人気です。
オーダーメイドも可能です。


その他にも、焼きもの・・・セラドン焼き、ベンジャロン焼き、宝石・・・ルビー、サファイヤ、銀製品、皮革製品、籐家具、民芸品などなど・・・目移りしてしまうほど楽しい買物になりそうですね。  


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ムエ・タイ

タイの人たちが、「アジアのラテン民族」と呼ばれていることをご存知ですか?そのタイの人たちの血が最も燃えるのは・・・ムエ・タイでしょう。
ムエ・タイというのは、タイの伝統的な格闘技です。
試合場では選手以上に観客のエキサイトブリに圧倒されそうです。


ムエ・タイの人気は、日本の相撲の比ではありません。
このムエ・タイ、実は相当な歴史をもつのです。
14世紀に栄えたアユタヤー王朝時代に、素手で敵を倒す一撃必殺の武術として生まれたといいます。
16世紀には、兵士にもムエ・タイの習得が課され、それによってビルマ軍(現在のミャンマー)に勝利したといわれます。
ただし、18世紀には生死をかけた懸賞試合が行われ、多数の死傷者を出したことから一時期禁止されたこともありました。
現在のようなボクシングのルールが採り入れられたのは、第2次世界大戦後のことです。


バンコクには2つの常設スタジアムがあり、そのどちらかで試合が行われています。


●ルンビニー・スタジアム
Th.Rama 4
開催日:火・金・土曜

●ラチャダムノン・スタジアム
Th.Ratchadamnoen Nok
開催日:月・水・木・日曜日


ムエ・タイの試合は、試合開始ギリギリではなく少し前には会場に着くようにしましょう。
試合前に楽団が伝統音楽をかなで、それにあわせてリングにあがった選手が、ワイ・クーという独自の踊りを舞うのです。
これはリング上の邪気を払うためと、自分自身に神の加護が下るように、というものです。


やがて試合のゴングが鳴り・・・直前の緊張感を漂わせる静寂は一気に破られます。
と同時に再び、ワイ・クーの音楽が始まります。
音楽はラウンドの間続きます。
選手の一撃一撃に合わせて、熱狂する観客のウォーイという独特の掛け声に、選手の殺気を帯びた肉体はますます躍動し、会場一体は独特のムエ・タイワールドと化すのです。  


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アユタヤへのアクセス

アユタヤの中心部は、チャオプラヤー川とその支流に四方を囲まれ、ちょうど島のような形状をなしています。
東西約7キロ、南北約4キロです。
遺跡全体は・・・暑さのなか大変ですが、歩いてまわることも可能ではないでしょうか。

アユタヤへの交通手段は、主に鉄道、バス、およびロット・トゥーになります。


鉄道
バンコクのホアランポーン駅から北線または東北線でアユタヤ駅まで行きます。
所要時間は約1時間30分です。
料金は3等で13B程度です。

アユタヤの鉄道の駅は、島の外側、パサック川を隔てた対岸にありますので、駅から遺跡までは渡し舟をつかっていくことになります。


バス
エアコンバスは、6:00~18:00、30分間隔で運行されています。
所要時間は約1時間30分です。
料金は38B程度でしょう。

また、ノンエアコンバスは、5:00~20:20、20分間隔で運行です。
所要時間は約2時間。
料金は16Bです。

アユタヤでは、バスターミナルは、島内ではチャオ・プロム市場近く、島外では東方の国道32号線近くの2箇所になります。

共に、バンコクの新北ターミナル発です。


ロット・トゥー
バンコクからアユタヤへは、バンコクの戦勝記念塔から30分間隔で運行されています。
所要時間は約1時間30分です。
料金は60B程度。
また、バンコクの南バスターミナルからも30分間隔で運行。
所要時間は約2時間、料金は40Bです。
いずれもアユタヤのチャオ・プロム市場に到着します。

一方、バンコク行きのロット・トゥーは、チャオ・プロム市場から出ています。  


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アユタヤクルーズ

アユタヤは四方を川で囲まれた、島のような地域です。
タイの首都バンコクとは川で結ばれているのです。
もちろん、バンコクからバス、鉄道、ロット・トゥーを使っていくこともできますが、ちょっと優雅に?川を船で行くというのもいいかもしれませんね?
観光つきの1日クルーズが催行されています。
ご参考までに幾つかご紹介しましょう(詳細など変更していることも考えられますので、必ずご確認ください)。


バンコクでの混雑、渋滞・・・にうんざりした方も、のんびりと船で川を行くことでゆったりとした気持ちになるかもしれませんね。
アユタヤの悠久の歴史を川は知っていますからね・・・王朝が栄え、そして滅びる時代の流れのなかで人間が失ってしまったものを自然はずっと保ってきたのですね。


アユタヤには、数軒の水上レストランがあります。
水の都アユタヤを満喫しながら食事を楽しむことができます。
夜、川沿いのナー・ワン広場でビールを一杯? 屋台の食事も捨てたものではありませんよ!


●パンダバス・アユタヤ・クルーズ PANDA BUS
電話:02-634-7155~7
FAX:02-634-7158
毎日催行。
出発は各ホテルからピックアップまたはHモンティン。

昼食つき。
行きは日本語定期観光バス、帰りが船になります。


●オリエンタル・クイーン ORIENTAL QUEEN
電話:02-236-0400
FAX:02-236-1939
毎日催行。
Hオリエンタル 出発。

昼食つきで、帰路はエアコンつき車両になります。


●チャオ・プラヤー・エクスプレス・ボート CHAO PHRAYA EXPRESS BOAT
電話:02-225-3002~3
FAX:02-225-3002
日曜催行。
出発はマハラートMAHARATから。

交通のみです。
往復とも船です。


●リバー・サン・クルーズ RIVER SUN CRUISE
電話:02-266-9316
FAX:02-234-2250
毎日催行。
出発は、SCリバー・シティから。

昼食つき。
行きはエアコンつき車両で、帰りのみ船となります。  


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ウィハーン・プラ・モンコン・ボーピット

アユタヤ王朝の数々の貴重な遺跡のなかでも、特に重要なのは、やはり、ワット・プラシーサンペットと、ウィハーン・プラモンコンボーピットといわれます。
四方をチャオプラヤー川とその支流で囲まれた島状のアユタヤ遺跡の中央部からやや西寄りで、3基のセイロン(現在のスリランカ)様式の仏塔が印象的なのが、ワット・プラシーサンペットです。
この寺院は王宮のすぐ北側に建てられました。
かつては金色に輝く巨大な仏像を納めていたといわれますが、現在は、石灰によって白くなってしまった仏塔を残すばかりです。


一方、王宮の南側にあるのが、ウィハーン・プラ・モンコン・ボーピットです。
ミャンマーからの寄付によって再建されました・・・ミャンマーは、かつてのビルマです。
昔のことですが、アユタヤ王朝を滅亡へと追いやった張本人なのです!・・・現在、本尊として、19メートルのブロンズ像を安置しています。
この像は、15世紀にラーマティボディ2世によって造られ、1603年にこの寺院に安置されました。
境内には、仏教大学や研究所などもあったといいますが、これらもすべてビルマ軍によって破壊されてしまいました。
再建された今では、美しい姿で人びとを魅了しています。
タイで最大の仏像といわれ、アユタヤ一の観光名所となっています。

寺院の前には大きな駐車場があり、みやげ物屋さんが軒を連ねます。  


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ワット・プラマハート

アユタヤ駅からミニバスか、トゥクトゥクで5分ほど行くと、「ワット・プラマハート」があります。
ここは、3代目のボーロマラーチャー一世によって1374年に建立されたワット(寺院)です。
仏舎利をおさめるために造られた寺院で、かつては尖塔の頂上が金色に輝いていたそうです。
しかしこのワット・プラマハートも、他のアユタヤ遺跡の数々と同様、ビルマ(現在のミャンマー)によって、散々に破壊されました。
現在は、木の根の間に埋め込まれた仏像の頭や、頭部がない仏像などがその悲しい歴史を伝えています。

1956~1957年に、アユタヤの歴史的建造物の修復を進める文芸省芸術局は、大規模な発掘調査を行いました。
仏塔を修復しようとする動きが高まりつつあったのです。
その際に、地下から貴重な財宝の数々が発見されました。
当局は、これらを納める博物館の必要性を感じ、「発掘品の一部を売って」・・・ここが何とも悲しいところですが・・・資金を作り、博物館を造りました。
それが現在のチャオ・サン・プラヤー国立博物館です。


チャオ・サン・プラヤー国立博物館は、アユタヤ駅からミニバスか、トゥクトゥクで10分ほどです。
ワット・プラマハーやワット・ラチャブラナといった破壊された寺院から出土された貴重な出土品を展示します。
ロリャナ通り沿いの、池に囲まれたなかに建てられています。


1961年オープンの1号館には、装飾品などの古美術が、また1970年オープンの2号館には、仏像を中心に展示しています。
高度な技術を駆使したかつての装飾品を前にすると、かつてのこの王朝がいかに繁栄していたのかを実感します。  


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王宮とワット・ロカヤ・スタ

●王宮
アユタヤ駅からミニバスかトゥクトゥクで15分です。

ワット・プラシーサンペットの北側にあります。
アユタヤ王朝を築いた初代ウートン王は、はじめワット・プラシーサンペット内に王宮を築きました。
しかし1426年に火災で焼失してしまったことから、9代目のトライローカナート王が現在のこの地に再建したのです。
1767年のビルマ侵略により、ワット・プラシーサンペットともども徹底的に破壊されました。
しかしその跡から、かなり巨大な王宮だったことが推測されます。


●ワット・ロカヤ・スタ
アユタヤ駅からミニバスかトゥクトゥクで10分です。

王宮跡やウィハーン・プラモンコンボーピットの裏手です。
ワットというのは、「寺」を意味しますが、このワット・ロカヤ・スタには、本堂などの建物はありません。
ガランとした草むらに「寝釈迦仏像」がまさしくごろんと寝っ転がって・・・横たわって? いらっしゃるだけです。
この仏像は1956年に復元されたもので、白くて美しいお姿です。
高さは5m、長さは28mという巨大なお釈迦さまです。
手足をゆっくりと伸ばしているその姿は・・・アユタヤの青い空の下でなんともいえない穏やかです。
みている者の気持ちまで和ませてくれます。


ビルマ軍の侵略によって、今では見る影もない跡地となってしまった王宮跡、そして今ものんびりと横たわる寝釈迦仏像・・・そしてその仏像の前では、お土産屋さんが軒を並べます。
長い歴史と現代がゆっくりと共存するこの空間に立つと、なんだかゆったりとした気持ちになるから不思議です。  


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古都アユタヤの歩き方

現在、「古都アユタヤ」として世界遺産に登録されている「アユタヤの歴史上の町と関連の歴史上の町」の公園内には次の遺跡があります:

・王宮
・ワット・プラシーサンペット
・ウィハーン・プラモンコンボーピット
・ワット・ウォーラチェーターラーム
・ワット・ローカヤスター
・ワット・ラーチャブーラナ
・ワット・マハータート
・ワット・プララーム
・ワット・ウボーソット

まずは、遺跡のメインともいえる、「ワット・プラシーサンペット」から、歩き始めてはいかがでしょう。


●ワット・プラシーサンペット
「ワット・プラシーサンペット」は、チャオプラヤー川とその支流で四方を囲まれた島状のアユタヤ地域の中央部からやや西よりに位置します。
アユタヤ駅からミニバスかトッォクトォクで15分です。


第1級の王室守護寺院で1491年に建造されました。
アユタヤで最大規模を誇ったものの、1767年のビルマ軍の侵略により、破壊されました。
現在は、石灰によって白くなってしまった3基のセイロン様式の仏塔しか残っていません。
このセイロン式の仏塔は、15世紀に建造されたもので、歴代3人の遺骨を納めます。
寺院名のワット・プラシーサンペットは、ここにまつられていた仏像に由来します。
この仏像は、1500年にラーマティボディ二世の命で作られ、高さ16m、250kgという巨大な仏像で、全身が純金で覆われて光り輝いていたといわれます。

今は、白く石灰化してしまったとはいえ、わずかに残った3基の仏塔が、消えてしまった往時を忍ばせます。
この寺院は、旧王朝宮跡に建てられた寺院で、新王宮はこのすぐ北側に建てられましたが、それも今は、土台と柱の跡が残っているだけです。  


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タイ王朝の誕生

歴史の町 アユタヤ
バンコクから北へ80キロに、古都アユタヤの遺跡があります。
「アユタヤ」という名称は、インドの長編叙事詩「ラーマーヤナ」物語でラーマ王子の国、インドのアヨーディヤにあやかり、アユッタヤーと名づけたのが始まりと一般に言われています。


スコータイ王朝・・・タイ国家の誕生

タイの最初の王朝は、13世紀にタイ北部(現在のスコータイ)に作られたスコータイ王朝です。
3代目王ラームカムヘーンが、「水に魚あり、田に米あり」と詠った碑文を残すほど、豊かな国だったと思われます。
この王朝は14世紀に入ると次第に衰えてきます。
そしてそれと並行するようにやや南部に建設されたのが、アユタヤ国家(ムアング・・・都市をさす)です。
そしてスコータイ王朝は、アユタヤ王朝の属国になり、アユタヤ王朝は現在のタイ国土の基幹を形成したのです。


アユタヤ王朝の誕生

古都アユタヤは、チャオプラヤー川そその支流に囲まれ、国際的な貿易港として栄えました。
カンボジアのクメール王国(アンコール王朝)を衰退に追いやったのがこのアユタヤ王朝です。

日本の山田長政が活躍したのは、このアユタヤです。


16世紀にビルマ(現在のミャンマー)の侵略によって滅ぼされました。
その後、タイでは、18世紀のトンブリー王朝、チャクリー王朝が続きますが、19世紀、イギリスと友好通商条約(ボーリング条約)を結び、植民地化の危機のなかで独立を維持してきたのです。


アユタヤ王朝はビルマ軍の侵入で廃墟と化しましたが、その広大な遺跡は、かつてのアユタヤ王朝の隆盛を忍ばせます。  


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水の都 バンコク

タイ王国の首都「バンコク」・・・でも、この名前、「バンコク」というのは、外国人がこの都市を呼ぶ名称です。
では、正式名称は?「クルンテープ=マハーナコーン」です。
タイの現地の人たちは、「クルンテープ」と呼びます。
バンコクは、昔、「東洋のベニス」と呼ばれるほど、水上交通が盛んな都市でした。
バンコク・ヤーイ運河とバンコク・ノーイ運河の入り口付近が人の集まる中心地でした。
まさに「水の都」だったのです。
「バンコク」という名前は、このふたつの運河からとられたものだったのです。

現在、バンコクの交通機関は、陸上交通が中心です。
バス、タクシー、および、三輪自動車の「ロト・トゥクトゥク」がものすごい渋滞を生み出しています。
そのため廃れつつあった海上交通が見直されてもいます。
バンコク市内を蛇行するチョプラヤー川には定期船が運航され、川を横断する渡し舟も活用されています。
朝のラッシュ時には、是非、運河をゆったりと定期船で北上してみてはどうでしょう?

開発が進むにつれ、タイの都市(ムアング)も変わりつつあります。
かつてタイの都市は、城壁、壕または砦に囲まれ、外敵や賊の侵入にそなえたつくりをしていました。
これに対して現在の都市(ムアング)は、ホーング・テーウという、一階が店舗で二階、三階が住居あるいは借家アパートという、どこも似たような外観が列をなす商業地域となっています。
これらは、大半がタイ国籍ではある、中国系商人によって建てられたものです。


変わりつつある今だからこそ、タイを訪れてみるのはきっと貴重な旅となると思います。  


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